当時の法律である私設鉄道法によって狭軌と定められていたので、法案が廃止される1919年までに開業した私鉄は、狭軌が多いんですよね
対して、軌道法はその縛りがなかったので、阪神、箕面有馬(阪急)、京阪、大軌(近鉄)などは軌道法に準拠させて標準軌で開業しています
— Osaka-Subway.com/鉄道プレス (@OsakaSubwaycom) February 15, 2017
1919年まで存在した私設鉄道法によって、民間の鉄道のレールゲージは狭軌(3フィート6インチ)でなければならないと定められていたことから、それまでに開業した私鉄はおおよそが狭軌で建設されました。
これには将来的な国鉄買収を考えていたとも言われており、実際に当時は私鉄であった阪和電気鉄道(現在のJR阪和線)も買収されています。
しかしながら在阪私鉄はこれを嫌がり、狭軌規程がなかった軌道法によって標準軌で開業させています。
そのきっかけとなったのは阪神電鉄でした。
鉄道がダメ?じゃあ「軌道」で。
当時の車両である1形(原典:『鉄道模型趣味特別増刊 私鉄めぐり特集』機芸出版社、1956年、p.6)
阪神電鉄は大阪と神戸を結ぶ路線である阪神本線がメインの鉄道会社ですが、当時既に国鉄東海道本線が開業しており競合することで、建設認可が降りないであろうと判断。
当時の阪神電鉄首脳陣は、東海道本線の管轄であった逓信省への申請を早々に諦めています。
そこで、直接的に競合しない内務省へ、軌道法として鉄道事業を申請したのです。
ちなみに軌道法での速度制限は8マイル(12.6km/h程度)まででしたが、阪神電鉄は軌道法では速度計をつけなくていいことを逆手に取り、常に速度違反で走行させて、当時の表定速度が20km/h前後(現在は60km/h)で、出入橋~三宮を90分で結んだのだそうです。笑
そこからざっくりと算出すると、だいたい40km/hオーバーほどになるのでしょうか。
官鉄(注:現在のJRのこと)の関係者が阪神に乗って速度超過の疑いありと監督官庁である内務省に通報し、内務省からも何度にもわたる指摘を受けたが、罰則を伴わないものだったために違反を改めようとはせず、開業1ヵ月後には80分に短縮、同年9月には1形を10両増備して72分と更に所要時間を短縮し、運転間隔も9分にしただけでなく、翌1906年の梅田駅延長に際しては所要時間・運転間隔もそのままだったことから実質的なスピードアップを達成した。これにより、阪神間における東海道本線は大打撃を受けたとされる。
今でこそタイガースや西梅田地区など、優良な事業を展開して、小さくまとまりつつもどこかおとなしいイメージの阪神電鉄。
しかし当時は国による過剰な介入を嫌がって法の抜け穴を探し、あくまで標準軌を採用して合理的な運営を志す、実に大阪商人らしい運営だったんですね。笑
阪神vs阪急で熾烈な乗客奪い合いを行っていたほどですから、相当であったといえます