京橋の悲劇を伝える「爆撃被災者慰霊碑」を見てきました

京橋の悲劇を伝える「爆撃被災者慰霊碑」を見てきました

JR学研都市線の京橋駅(東側の小さい出口)を出て右を向くと、非常に重々しい雰囲気をまとった慰霊碑があります。

ここは、太平洋戦争が終わる一日前の1945年8月14日に、236名の方が1トン爆弾の直撃を受けて亡くなった場所なのです。

 

学研都市線の改札横に

慰霊碑を正面から。本当に重い雰囲気でした。写真で見てもどことなくそれを感じてしまいます…。

 

慰霊碑横には、当時の被災状況を記す看板が設置されています。

元々違う看板が立てられていましたが、2004年にこの平和像が建立されて20周年を迎えたことから、新しく写真付きのものになったようです。

 

太平洋戦争終戦前日の昭和二十年八月十四日、大阪は最後の大空襲を受けた。B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し、集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の一トン爆弾が四発、京橋駅に落ちた。うち一発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は二百十名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、五百名とも、六百名とも言われている。

当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏が、あまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和二十二年八月十四日、自費で建立された慰霊碑である。

 

当時、この近くには「大阪陸軍砲兵廠」という、武器を作る工場が大阪城公園周辺(大阪メトロの森之宮検車場やJR西日本の車庫の前身)にありました。

1km程度しか離れていないこの地へ爆弾が降り注いだのは、兵器工場を狙って落とされた爆弾の流れ弾だったのです。

 

 

 

1トン爆弾が…

戦争の話でよく見る焼夷弾とは異なり、京橋に落ちてきたのは「1トン爆弾」でした。

文字通り重さが1トンもある爆弾で、1km四方へ破片が飛び散る殺傷力を持ちます。高高度の空から落とされた場合、重力と合わさってすさまじい質量になって落ちてくることでしょう。

そう、高架の線路ぐらいやすやすと突き破るぐらいのエネルギーがあるのです。

 

 

空襲警報が出て避難する場所がなく、「とりあえず」と線路下に200名もの人が避難したのでしょう。

流れ弾は大阪環状線の京橋駅大阪方面ホーム西側に命中。続いて落ちてきた爆弾が悲劇を引き起こします。

 

落ちてきた爆弾は、大阪環状線の高架を突き破り、学研都市線との交差部分に避難していた人々へ直撃。

高架下にいた人は突き破ってきた爆弾の直撃をそのまま受けたり破裂した爆薬の被害を受けたりしたのでしょう……。合掌。

 

 

慰霊碑を建てた森本氏は、当時の状況を振り返り「生き地獄そのものだった」と振り返っています。

 

 

被災から三十七回忌を迎えた昭和58年。慰霊碑とは別に納経塔と、先程の仏像部分が新しく建立され、現在に至っています。

現地を通りがかった際にこの記事を思い出して、少しでもこの慰霊碑に目を向けて頂けると幸いです。

 

 

現地の地図

 

 

関連リンク

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参考文献

大阪市立図書館「京橋駅の空襲被害について

 



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