「京阪神緩行線」なるナゾの言葉はいつ生まれたのか

「京阪神緩行線」なるナゾの言葉はいつ生まれたのか

JR西日本の京都(山科)~大阪~西明石間における内側線を指す言葉として、「京阪神緩行線」というワードが使われることがあります。

https://twitter.com/OsakaSubwaycom/status/1257905372129566720

しかしながら関西民の間では全く使われず、ましてや関西の鉄道趣味者でもあまり使われないのに、何故か鉄道趣味雑誌では用いられる事が多い言葉です。

JR発でもアナウンスされない言葉で、もちろん路線名としても存在しません。

Wikipediaにも同名のページがありますが、要出典扱いとなっています。

この「京阪神緩行線」なる妙な言葉は、いつ頃から使用されているものでしょうか。

 

文献をたどる

現在ヒットする中で最も古い文献が、昭和16年に東京発で発行されたこれ。

(昭和)十三年十一月に、京濱線及び京阪神緩行列車の二等車連結の廃止を断行した

出典:産業経済学会(東京市小石川区八千代町43)「戦時経済国策大系 第6巻 戰時經濟と交通運輸」、長崎惣之助、昭和16年

長崎惣之助氏は、後年(1951-55)に日本国有鉄道の総裁を努められた方です。この文献を書いた当時は鉄道省次官でした。

この後、「京阪神緩行(線)」というワードが出てくることはなかったので、このケースでは一般的な形容詞として用いられたものと思われます。

 

101系?

ところが、1961年に突如として大量にこのワードが頻出します。

新通勤電車が完成したならば、下記の線区は漸次これに切替えてゆき、101形は中央総武線、常磐線、京阪神緩行線だけとする。

出典:日本鉄道技術協会「JREA」『こんごの通勤電車』 大城康世・川添雄司(国鉄外務部)、1961年6月

 

これは当時登場した101系電車にまつわる関係で、これ以外にも

・「鉄道ピクトリアル」(1961年5月、電気車研究会)」
・「電気車の科学」(1961年5月、電気車研究会))」

で登場する他、先程のJREAでも

・JREA(1962年3月)『次期新形式通勤電車の構想』久保田博(国鉄工作局車両課)

という文献に、別の国鉄職員の名義で書かれていました。

つまり用語として生まれたのは(現在わかる範囲で)1941年。広まり始めたのは1961年で、この頃から国鉄内部の用語としては存在していたようです。

 

 

以上のことから、

・関西と関東で同じ101系電車を同時期に投入することになった
・その際、関東電車圏で用いられていた「名詞としての緩行線」を関西へも便宜的に当てはめた

と、当サイトでは推測しています。

 

 

イマイチ浸透しない理由

では、「京阪神緩行線」があまり浸透しない理由は何でしょうか。

このあたりは「コクゴ鉄道ニュース」さんが以下のように分析・解説されているのですが、当サイトでも全く同じであると考えています。

①他の愛称がある
②複々線を呼び分けるにも他の呼称がある
③ 殆どの快速が「京阪神緩行線」を走る
④ 「京阪神緩行線」の対義語がない
⑤ 種別であるはずの「新快速」がもはや路線名

参考:「コクゴ鉄道ニュース」より

一番大きいのは、やはりJR側がそもそも使っていないということでしょうか。

JR東日本の場合は「会社要覧」などの準公的な書籍において「総武緩行線」「常磐緩行線」という用語が出てきますが、JR西日本ではそういったワードが出てきません。

 

また、マニア向けに「急行線」「緩行線」を呼び分ける場合でも、「外側線」・「内側線」という呼称をすることや、この区間の快速電車が日常的に緩行線を走るので、実態に即していないことも背景にあると思われます。

一方、関東圏では同じ路線でも急行線・緩行線で使用される電車の色も異なるなど、大きく浸透している「文化」です。

 

関連リンク

 

「103系がうるさいから変えろ」とまさかの国から名指しで批判されるJR西日本

【グッバイ】最後の奈良103系、廃車回送

 

参考文献

・産業経済学会「戦時経済国策大系 第6巻 戰時經濟と交通運輸」、長崎惣之助、昭和16年
・「鉄道ピクトリアル」(1961年5月、電気車研究会)」
・「電気車の科学」(1961年5月、電気車研究会))」
・JREA(1962年3月)『次期新形式通勤電車の構想』久保田博(国鉄工作局車両課)




鉄道イベント情報

3月15日(金)
3月16日(土)
3月17日(日)
3月18日(月)
3月19日(火)
3月20日(祝)
3月21日(木)
3月22日(金)
3月23日(土)
3月24日(日)

JR西日本カテゴリの最新記事