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【鉄道歴史ミステリー】新京阪は京阪から阪急へ"奪われた"のか

      2017/01/26

鉄道の歴史ミステリーの一つに、元々京阪電鉄が持っていた路線である新京阪鉄道(現在の阪急京都線)が、何故阪急電鉄に奪われてしまったのか、というものがあります。

現在の阪急京都線のうち、天神橋~大宮間は京阪電鉄が保有する子会社「新京阪鉄道」の路線でした。有名なP-6は、阪急が生んだのではなく新京阪が生んだ名車なのです。

昭和18年、戦時中に施行された陸運調整法に基づき、京阪は阪急と強制的に合併させられてしまいます。その後、戦争が終わった昭和24年に国によって無理矢理ひっつけさせられた両者は分離するのですが、何故か「京阪の子会社であった新京阪」は、阪急のものとなってしまうのです。

 

これだけダイナミックな路線割譲が行なわれているのにも関わらず、ハッキリとその理由を示した文献がなく、長らく謎に包まれていました。

 

あくまで噂レベルの話でネット上に転がっているのは

・分離当時の京阪電鉄には、新京阪を持つだけの力がなかったから阪急が引き取った

・戦時統合で国が無理やり統合させたので早く分離したく、多少犠牲を払ってでもウマの合わない京阪としては独立したかった

・新京阪は赤字が酷く、阪急が仕方なく併合した

という話。

しかしながら、私はこれを阪急側の恩着せがましい歴史の押し付けだと思うのです。

 

何故なら、あれほど梅田乗り入れにこだわり、かつて保有していた和歌山軌道線を手放してまでなんとか新京阪を維持していた京阪が、そうやすやすと新京阪を手放すはずがありません。

 

都合の良い歴史ではなく、本当の歴史の真実を検証すべく、様々な文献を調べてみました

 

 

参考文献を片っ端からあたる

ひとまずはネット上、そして大阪の図書館、さらに国立国会図書館にまで足を伸ばして色々調べてきました。

しかし京阪電気鉄道の分離案作成に関連して、旧阪急系役員と旧京阪系役員との間には、深刻な対立があることが明かになってきた。
旧京阪側は合併前の姿に返して発足することを主張したのに対し、旧阪急側は旧阪急各線にかつて新京阪鉄道に所属した各線を加えたうえで分割に応じようと主張した。
昭和24年12月1日に(新)京阪電気鉄道は発足したが、旧京阪糸役員の主張はついに通らなかった。
京阪神急行電鉄がかかる形で再出発することを、太田垣社長は
「当社の現状をみると、淀川を境として神戸線・宝塚線・新京阪線を含む西部ブロックと、京阪線・大津線を含む東部ブロックの2つに画然とわけることができ、おのおのその特徴を異にしている。……

現在の情勢下において、どちらに重点を置くべきかといえば必然的に国鉄並行線であり、競争線である西部ブロックに重点を置かざるを得ないわけで、東部ブロックを等閑にする訳ではないが、一応はすべての措置が2次的になるので、これでは真に沿線の居住者に申し訳ない。……
性格を異にする2つのブロックを分離することが最良の方法であるとの結論に達した」(注7)
と説明したけれど、その論理は、換言すれば旧阪急の繁栄のためには新京阪線が必要であり、手放すわけにはゆかないとするものである。
旧阪急側の利益のために、かつて一度は手中に収めた和歌山軌道線を手放してまで維持してきた新京阪線を他社の手に委ねることは、旧京阪側としては忍び難いものであったであろう。
強制結婚は協議離婚に際しても大きな歪みを残したのである。

http://ktymtskz.my.coocan.jp/kansai/hankyu.htm#7

 

「鉄道ピクトリアル」1970年3月号の「京阪神急行電鉄特集」で、鉄道史研究家の中川浩一氏は、「京阪電気鉄道の分離案作成に関連して、
(中略)旧京阪側は合併前の姿に返して発足することを主張したのに対し、旧阪急側は旧阪急各線にかつて新京阪鉄道に所属した各線を
加えたうえで分割に応じようと主張した」と前置きしたうえで、旧阪急の主張について「旧阪急の繁栄のためには新京阪線が必要であり、
手放すわけにはゆかないとするものである」「旧阪急の利益のために、かつて一度は手中に収めた和歌山軌道線を手放してまで維持してきた
新京阪線を、他社の手にゆだねることは、旧京阪側としてはしのびがたいものであったろう」と、京阪側に同情的なコメントを寄せています。

http://ta.sakura.ne.jp/~sakura/maroon/bbs/log/001226.htm

 

昭和19年当時の役員

ネット上を見ていると、「役員数で負けていた京阪が、役員会の多数決で負けて持って行かれた」という説も垣間見えます。

そこで、当時の役員を調べてみました

 

合併後の役員は

S19京阪神役員
役職 元役職
社長 佐藤博夫 阪急社長
副社長 佐藤一男 京阪専務
専務 岩倉具光 阪急専務
牲川角之助 京阪常務
常務 林 藤之輔 阪急常務
取締 山口謙四郎 阪急取締
吉原政義 阪急取締
小林冨佐雄 阪急取締
清水雅 阪急取締
首藤徳千代 阪急取締
井上周 京阪取締
大槻信治 京阪会長
種田登己夫
村岡四郎 京阪系
太田恒士郎 阪急系
今田英作 京阪系
常監 三浦英太郎 京阪監査
監査 八馬*介(*は読解不可)
松岡潤吉 阪急取締

※データは四季報より

昭和18年に設立した京阪神急行電鉄の資本金は1億6,385万円。この内訳として、出資金としては阪急が7,000万円、京阪が9,385万円と京阪の方が多かったようです。

しかしながら、役員数は元阪急系社員が10名、元京阪系社員が7名(1名は不明)と、阪急側が優勢です。

 

昭和22年役員

S22京阪神役員
役職
社長 太田恒士郎 阪急系
副社長 村岡四郎 京阪系
専務 (なし)
常務 今田英作 京阪系
取締 和田薫 阪急系
小林米三 小林家子孫

※データは四季報より

昭和22年になると公職追放を予見して、多数の役員が自主的に辞任していたようです。専務ポストには誰もいませんでした。

過度経済力集中排除法の方は法用査定も進んで、第2次査定(23年2月)では、私鉄関係を含めてサービス業一般には適用されない公算が大きくなった。しかしいまや法令適用の有無にかかわらず、京阪神急行電鉄としての復興計画では、重点的施策の対からはずれがちとなる旧京阪電鉄関係輸送施設の復興と安全性の確保が、焦眉の急を告げているのである。

 村岡副社長は、旧京阪電鉄系筆頭役員の立場から、もと京阪電鉄に属した諸施設の復興についてはだれよりも真剣に考えていたので、はやくから、太田恒社長とのあいだに、慎重な協議を重ね、24年にはいると、漸次その構想はまとまってきていた

(中略)

昭和24年9月3日、会社では緊急取締役会を招集した。

この役員会で、はじめて、新会社を設立して、これに京阪線・大津線の設備と営業権とを譲渡することを決議した。

発起人は、太田恒士郎・村岡四郎(発起人代表)・今田英作・和田薫・小林米三・宮本英雄・鈴木祥六郎・佐藤信二郎・森 薫・岡林事・引田一郎・中西 豊・岩切 正・木村滉三・川崎一雄・佐竹三吾・佐川春雄・黒川寛一・伊東俊雄・甲斐庸生らとする

「鉄路五十年」-京阪電鉄  昭和35年12月25日,311p-312p 

また、22年四季報には監査役が掲載されていませんでしたが、この比率で役員会で分離に関する事案が多数決で決められていたとすれば、京阪側に不利であったことは間違いありません。

しかし分離当時の23・24年のデータがまだ手に入っていないので、まだもう少しこの線については検証の余地があります。

手にはいりました(2017年1月追記)

 

昭和24年上半期役員

分離が決定なされたのは昭和24年9月。実行に移されたのは11月。このことから、分離前の昭和24年上半期の役員を探りました。

また、昭和23年下半期~24年10月31日まではこの構成で変わっていません。

S24上半期 京阪神役員
役職 出自  分離後
社長 太田恒士郎 阪急系  阪急
副社長 村岡四郎 京阪系  京阪
専務 (なし)
常務 今田英作 京阪系  京阪
宮本英雄  阪急
取締 和田薫 阪急系  阪急
木村滉三  阪急
川崎一雄  京阪
佐竹三吾 (官僚、近鉄系→阪急バス)  辞任
甲斐庸生  辞任
岩切 正  京阪
小林米三 小林家子孫  阪急
鈴木祥六郎 阪急系
(1934.「省社線切換工事と梅田停留場改良工事に就て」「阪神急行電鉄社報」第186号)
 阪急
佐藤信二郎  阪急
森 薫 新京阪系(分離後阪急)  阪急
岡林 事 京阪系  京阪
引田一郎 阪急系(宝塚歌劇)  阪急
中西 豊  阪急
 監査 黒川寛一  京阪
伊東俊雄  阪急

出典:京阪神急行電鉄五十年史

 

分離後の配置や、合併当時の出自も含めて記載しました。

分離後役職を見ると、阪急残存が11名、京阪残存が6名と、仮に辞任された2名が京阪側に回ったとしても、阪急側が多数であったことがわかります

 

このことから「役員会では京阪側が劣勢に立たされていた」という説が、ほぼ立証された形となります。

 

前述のように、表向きは当時の太田社長が宣誓した「左岸ブロックは阪急、右岸ブロックは京阪に一元化して…」と書かれていますが、当時の京阪側としては「Noと言いたくても拒否権がなかった」という事情が見えてきました。

 

 

新京阪の"価値"はあった

また、当時の労働組合の出していた書籍を見ると、このように記されています

 太田恒社長はひとりで基本線…新京阪線を阪急が取る代償として、京阪電鉄をスッキリとした形で復活させる…を出し、経理の達腕和田常務に具体策を練らせる一方、村岡副社長と接衝六月末に一応早急断行の意図をためて、主務当局の正式諒解を求めて発表の段取りとなった。むろん雅俗山荘の老人(小林一三)に仰ぐところはあったであろう。

「斗いの記録 組合十年史」 京阪神急行電鉄労働組合 昭和32年9月10日,177p 

元阪急側の太田恒士郎社長が、敢えて「取る代償」という言葉を使っているあたり、当時から新京阪線には価値があったと見ることができます。

すなわち、よく言われる「新京阪沿線には閑古鳥が鳴いていて、価値がなかった」という説は疑わしくなります。

 

業績が悪すぎた?

また、これもよく言われる「新京阪は沿線人口が少なすぎて儲けが出なかったから阪急が仕方なく引き取った」という論調。

確かに昭和6年の時点では、建設費概算が3,717万円(当時)、有利子負債197万円、営業利益123万円と苦しかったことが見て取れますが、これが昭和11年になると有利子負債138万円、営業利益190万円と、バランスシートにおいては好転し始めています。

京阪電鉄が新京阪鉄道を子会社化したのは昭和5年ですから、京阪としてはしばらくを耐えれば好転する見込みがあったと推測できます。

このことから、表題の件に関しては阪急側の恩着せがましい歴史の押し付けであるといえます。

 

総評

このように、現在わかっている文献的を丹念に追っていくと「京阪が割譲した」というよりは「阪急に奪われた」という論調の方がしっくりきます。

また、京阪側は昭和24年の分離独立を急いでいた、という事情も見えてきます。

だとすれば、京阪としては「早急に独立するために、新京阪の犠牲はやむを得なかった」という事情もあったのでしょうか。

もしも京阪京都線が残存していたのなら、8000系のような阪急とはまた違ったエレガントな車両が走っていたのでしょうか

 

Twitterにおいての参考資料


 - 京阪電鉄, 他鉄道, 阪急電鉄