時は明治42年。大正天皇(当時は皇太子)は当時、全国を行啓(天皇陛下がお出かけなさること)して周っておられました。
福井県・石川県へも行啓が行われることになり、専用のお召し列車に乗って途中敦賀市の杉津駅を通りました。
そこから見える敦賀湾の景色があまりにも素晴らしく、汽車の発車を遅らせた…という逸話がよく紹介されます。
そんな杉津駅の光景を私も見てきました。
今はパーキングエリアに
杉津駅は北陸本線の旧線にあった駅で、現在は北陸自動車道の杉津パーキングエリアになっています。
規模としては小さく、隣の南条サービスエリアに劣ります。
ただ、冒頭でも書いたようにその景色は絶景の一言です。
杉津駅は明治29年に開業。関西から海への旅客が多く押し寄せたそうで、途中2.5kmの坂を下って海まで行ったそうです。すごいな明治の人…
尚、景色は上にある下りPAからの方がよく見えます。
本当にあった?
…それはそうと「この天皇陛下が汽車を遅らせた」という話はWikipediaを基に行政の公式を含めた各サイトまで倣っているのですが、本当なのでしょうか。
福井県への行啓
行啓自体の記録は、複数文献から裏付けがなされています。
福井県歴史博物館のサイトに「明治42年(1909)9月、嘉仁皇太子(後の大正天皇)の福井県への行啓がありました」という記述がある他、石川県図書館のサイトにて「明治 42 年 9 月に皇太子として石川県を行啓」「東宮殿下北陸行啓記念葉書」という記述もあります。
福井県が当時編纂した「行啓記念事業」という文献もあり、行啓自体はあったようです。
遅らせた逸話
そしてこの話。
1909年(明治42年)、東宮(後の大正天皇)行幸(9月18日 – 23日)の折りには御乗用臨時列車(お召し列車の当時の呼び名)にて当駅を通過の際、殿下はその絶景に見惚れて、暫く汽車の発車を遅らせたという逸話も残っている。
原典となっているのは2006年に書かれたWikipediaっぽく、そのページでも出典は書かれていませんでした。
現在検索して引っかかるページは、全てWikipediaをソースとしてなんとなしに用いているようです。
敦賀市役所にも同様のページはあるものの、思いっきりWikipedia丸パクリな文章なのであまりアテになりませんでした…(ええんかそれで)
ありました
あれこれ探していたのですが…その出典が見つかりました。
名古屋鉄道局が編纂した「鉄道温古資料」という文献に書かれています。
杉津驛補選助手鈴木源治郎が驛長田中稔■貨物積卸場に造園せしが明治四十二年九月 皇太子殿下北陸行啓の御砌鶴駕(注:かくが、皇太子の乗り物のこと)を駐めさせられ敦賀港の風光を賞でさせ給ひて
出典:名古屋鉄道局総務部「鉄道温古資料」1942年10月
注:■は判別不可
【現代語訳】
杉津駅の補選助手である鈴木源治郎が、駅長田中稔と貨物の積卸場に造園したのが明治四十二年九月。皇太子殿下が北陸行啓で乗車されていた客車を駐め、敦賀港の風光明媚な風景をお褒めになられた
「客車を駐め」とあることから、大正天皇が自らの意思でそこに留まったことが立証された形になります。
当時のスケジュール
行啓当時のスケジュールも書かれていたので、ここに記録しておきます。
9月15日
7:40 新橋停車場発車
16:24 岐阜停車場着、宿泊
9月16日~18日
岐阜県に滞在
18日
7:50 岐阜停車場発車
12:26 武生停車場着
14:40 武生停車場発車
15:13 福井停車場着、宿泊
出典:石川県立金沢第一中学校校友会「鶴駕巡啓記」明治42年9月
大正天皇が汽車を遅らせたのは、明治42年の9月18日、7:50~12:26の間に起こったものと見られます。
天皇陛下といえば原宿の皇室専用ホーム(原宿駅側部乗降場)がありますが、これは大正天皇の具合が悪くなった大正14年10月に完成したもの。当時はまだありませんでした。
なので、新橋から乗り込む形となっていたようです。
関連リンク
参考文献
名古屋鉄道局総務部「鉄道温古資料」1942年10月
石川県立金沢第一中学校校友会「鶴駕巡啓記」明治42年9月