【関西企業研究】たこ焼きの元祖「会津屋」

【関西企業研究】たこ焼きの元祖「会津屋」

会津屋さんは、1933年にたこ焼きを発明した、たこ焼きの元祖です。

他のポピュラーなたこ焼きと違い、創業当初のままのソースの濃い味でごまかさず、衣に出汁を染み込ませているのが特徴で、これが「ほんまもんのたこ焼き」なのです。

ソースがなく出汁と桜えび風味のカリッとした皮が特徴のたこ焼きは、私もよく行くお気に入りのたこ焼き屋さんです。

大塚愛さんも一押しとのこと。さすが大阪人。わかってる。

そんなダントツでお気に入りの会津屋さんについて、今回は企業としての歴史を調べてみました。

 

会津屋の由来

会津というのは福島県の地名ですが、これは創業者である遠藤留吉氏が会津藩出身であることが理由です。

遠藤氏は百姓一家の三男として生まれ、27歳の時に家を出て東京にやってきます。

神田神保町の食堂に就職して所帯を持った後、「暮らしやすい」と聞いた大阪に引っ越します。

 

ラヂオからたこ焼きへ

当時、大阪の屋台によく出ていたのが「ラヂオ焼き」と呼ばれるものでした。

これは今のたこ焼きの形状のまま、中にこんにゃく・えんどう豆・紅生姜を入れたもので、どちらかというと子供向けの食べ物でした。

遠藤氏はこれを真似てラヂオ焼きの屋台をスタートさせます。時代は大大阪時代の1933年。御堂筋線が開業した年でもありました。

1935年には、子供向けの食べ物だったラヂオ焼きに炒めた牛肉を入れ、大人でも食べれるような商品として昇華させます。

遠藤氏は当時、今里新地にて屋台を出していました。

新地といえば大人の遊び場で、関西一円から人がやってきます。インターネットがないこの時代、情報も最先端・広範囲のものが集まってくる場所でもあったのです。

 

ここで、明石から来たとある方から「明石ではたこが入っている」という情報を聞き出します。そう、明石焼き(玉子焼き)のことです。

 

遠藤氏はこれをもとに、中に入れるものをタコに変更した所、爆発的な売れ行きを伸ばし始めたのでした。

 

遠藤氏はこれを「たこ焼き」と名付けて売り出します。名称も会津屋がスタートなのです。

 

女性の好きなものとして、「いもたこなんきん(芋・タコ・かぼちゃのこと)」と言われますが、まさにその中のタコをヒットさせたのが会津屋のたこ焼きなのです。

 

 

店舗移転経歴・店舗情報

先述したように、会津屋は1935年から今里新地で屋台を運営していましたが、戦時中の食糧不足から道具屋をしつつ1948年まで一時休止。

同年再開の後、1949年には天下茶屋へと移転します。文献によると「国道26号線に面していて…」「地主がマンションにする」とあるので、駅前ではなく、現在マンションがある場所のようです。

1992年8月に現在の玉出本店へと場所を移転しているようです。

1990年頃、初の2号店をナンバ地下センター(現在のなんばなんなん)にオープン

1998年には、3号店であり長年店舗を構えた地でもある天下茶屋店を、南海天下茶屋駅下にオープン。

現在は「粉カルト」と称した総合粉物店舗となっており、たこ焼き以外にも派生メニューが並んでいます。

 

法人情報

株式会社会津屋

本店:大阪市西成区玉出西二丁目3-1
以前の本店:大阪市西成区橘一丁目5-2
代表取締役:遠藤勝(創業者三代目)
創業者:遠藤留吉
法人設立日:昭和59年4月3日
資本金:1000万円
法人番号:2120001002849

 

店舗所在地

・本店(玉出)
・ナンバ店(2号店)
・粉カルト 天下茶屋店(3号店)
・梅田店
・なんばウォーク店
・ユニバーサル シティーウォーク大阪店
・天保山店
・ららぽーとEXPOCITY店

・お台場店
・エビスタ西宮店(2018年10月29日オープン)

【閉鎖】
・淀屋橋店(ネクストワン淀屋橋内、ビル建替に伴う閉鎖)
・アステ川西店…2019年2月頃閉店
・イオンモール堺北花田店…2010年9月26日閉店
・針中野店…2010年6月頃閉店、(1967年開店、創業者の実子 遠藤公子氏による暖簾分け)
住所:大阪市東住吉区東田辺3-27-21

 

参考文献

・『暮しの手帖 第三世紀 84号』2000年2・3月号
・株式会社会津屋 法人登記簿
・会津屋 公式サイト http://www.aiduya.com/about.html
・「PAPUAのぶらり関西発見伝4」https://papua.osakazine.net/e492019.html




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